生命の不思議な生態_第十一話

投稿日:2024年2月1日

生命の不思議な生態(第十一話)

 

繁殖出来ない植物(?)が人類を救ったイネ科の植物

 

5.ムギ(麦)

 

本来、小麦は子孫を残すために、種子が熟すと地面に落ちてしまう。

一粒一粒拾ってはいられない。

ところが、ある時、突然変異で種子が落ちない株を発見し、その種子を採って育てることによって安定的に食糧が確保出来た。

この非脱粒性は、トウモロコシと同様、本来は子孫が繁栄出来ない落ちこぼれ組であるが、人間に栽培されることによって繁栄出来たのである。

 

アフリカに大地溝帯と呼ばれる巨大な谷が出来たが、その谷が出来たために湿った赤道西風が東側地域に遮られて届かなくなり、乾燥が進み、熱帯森林が草原化してしまった。

この環境変化がサルから、ヒトへの進化を促したと言われている。

この大地溝帯は、ミトコンドリア・イヴ発祥の地で、森での生活が出来なくなり、人類は仕方なく水が手に入りやすい川沿いの地域を求めて、チグリス・ユ-フラテス川上流に辿り着き、やがて下流の湿地帯迄生活圏を広げ、人口増加と共にナイル川までにも移住するようになった。両地域は降雨量が少ないものの、砂漠の中の肥沃な地帯であり、砂漠に水路を引き、種を撒いて育て、半農半牧の遊牧生活を送ることになったのである。

農業は自然が豊かな温暖で雨量が多い場所では発展しない。豊かな場所は、農業のような重労働をしなくても食べるものが豊富なため、生きていくことができる。

麦の原種であるヒトツブ・コムギは10,000年前に、中央アジアからカスピ海あたりの山岳地帯の草原に、草に混じって生えていたようで、原始の人々が落ちた実を拾って食べていたと考えられている。実にデンプンが入っていたことと、その実に毒性がなかったことを知ったからである。

野生の「ヒトツブ・コムギ」を最初に栽培したのが、BC8400年頃で、原種は成熟すると風で飛び散った。手間がかかったため種子が落ちないよう長年の歳月をかけて、先人達が品種改良(落ちない株同士交配)した。

当時のエジプトやメソポタミアの草原には、雑草が一面に繁茂しており、野生の大麦や小麦が自生していて、それを食べるヤギ・ガゼルが生息していた。

土壌は肥沃な沈泥が堆積していたこともあって、トルコ等や西アジアからヒトツブ・コムギが改良された麦(大麦)がもたらされ、栽培するようになったようだ。

  •  雑草のクサビコムギに野生のヒトツブ・コムギを交雑して、フタツブ・コムギが生まれ、さらにこれを品種改良して現在のパンコムギに辿りついた、古代小麦はグルテンが少なかったから膨らまない。小麦は、グルテンが多く焼くとふっくらしておいしいが、最近は、過剰摂取による小麦アレルギーを生んでしまった。

 

大麦は小麦より粒が大きいだけでなく、乾燥地帯でも標高が高くて、環境に強く暑さ寒さに耐えられることから、栽培が容易だったと考えられる。

但し、大麦はタンパク質のグルテンを含まないので、発酵させても膨らまない。(無発酵パン)そこで、大麦は味噌・ビ-ルの原料に使われている。

子供の頃、私は麦飯が嫌いだった。その頃の麦は現在よりかなりまずかった。中心の黒い筋(押し麦)が喉に引っかかりパサパサだったからである。これを食べやすくしたのが「とろろ飯」である。麦飯にすった山芋の出汁をかけて食べればパサパサ感はなくなる。

おかずは少量で済むことと、かけこんで食べることによって早く食べることが出来、何より消化が良い。これに目をつけたのが、丸子(まりこ)の宿(静岡市にある「東海道五十三次」の宿)である。

白米は贅沢で、麦飯を食べやすく、急ぐ旅人にとっては早食いができ、おかずが入らない。山芋は長く伸びることから長生きできる縁起かつぎだろう。

芭蕉もこの宿に立ち寄ったようだ。

「梅若葉、丸子の宿のとろろ汁」芭蕉。

 

麦は、表皮が硬く、内側の部分が柔らかくもろい。そのため表皮を叩いて取り除き、「粥」として食べられていたが、その後石臼を作って粉状(小麦粉)にし、焼いてパンにすると消費は大きく伸びた。そこで生産方法を工夫しなければならない。

石臼では少量しか粉にできないので、水車が発明された。水に恵まれない地域では風車が出来、産業革命によって石炭・石油による動力機械が大量生産を可能にした。更に、胚芽を取り除く製粉技術が発達し、麺やお菓子・酒等様々な食品の原料となった。

麦酒の代表はビ-ルであるが、大麦麦芽を使ったものにモルトウィスキ-があり、小麦にトウモロコシを混ぜたウォッカやジン、日本では麦焼酎等の蒸留酒に麦が使われている。

麦栽培の問題は、大量栽培すると害虫や病原菌による大規模被害が生じる。それを防ぐために農薬が開発されたが、農薬を使っていくうちに、害虫が農薬に対して耐性を持つようになり、病原菌による枯死を克服するために遺伝子組み換え技術が発達していった。

 

日本には2000年前の遺跡から麦が出土している。

但し、馬のエサで、石臼がなかったため人間の食料にはなり得なかった。

鎌倉時代に碾き臼が中国から持ち込まれたことで、製粉技術が進化したが、まだまだ粉にするための手間がかかるため、人が食べるようになったのは、石臼が普及した江戸時代以降で、無論、当初は高級食だった。

戦後、学校給食にパンが導入され消費が拡大したが、アメリカの小麦供給過剰が幸いして安く輸入され、脱脂粉乳と共に戦後の子供達の食糧危機を救った。だから当時は「小麦粉」ではなく、アメリカから輸入されたので「メリケン粉」と呼ばれた。現在でも日本のパンの原料である強力小麦(強力粉)は、50%近くアメリカから輸入している。

学校のパン給食は、小麦輸出を確保するためのGHQの戦略だっただけでなく、日本の食文化を破壊した側面は見逃せない。

日本は高温多湿で、梅雨があるので北海道以外は生産に向かない。例外は瀬戸内海で上昇気流が中国山脈と四国山脈に阻まれるために、降雨量が少ないから生産されている。(播州小麦)

熟した小麦は水に濡れると発芽してしまうから雨には弱く、小麦は温帯から亜寒帯にかけて生育し、乾燥に強い作物なのだ。

 

麦は多くの人を救ったが、反面、多くの人の命を奪った。

その理由は、イネと異なり麦は連作出来ないからである。そのため三浦制と言って村の耕地は

  1. ライ麦・小麦のための秋畑
  2. 大麦・エン麦、豆類のための春畑
  3. 休閑地(地力回復のため)

の三つに分けられ。毎年土地をローテーションして使う。

休閑地には家畜が放牧され、その糞尿が作物の肥料となったことにより、土地の生産力は高まった。より土地の生産性を上げるために、家畜の餌としてカブ、クローバーを栽培し家畜を集約的飼養することにより、家畜が増産された。

家畜は増産されたが、麦を栽培するには広大な面積が必要になることにかわりはない。このため領土を広げる必要があった。

欧州の国は、国土の面積が狭い上に土地が痩せている。土壌を豊かにするためには放牧が必要だった。隣国だけでなく、遠くの国に麦畑を確保するため侵略して植民地とする必要がある。自国の民を飢えから守るために、領土侵略戦争はやむを得なかった。

一方、イネは連作可能であるだけでなく、手をかければ反当りの収穫は多くなる。イネ栽培には、灌漑、畔づくり、田植え、稲刈り等、村中総出で協力し合う必要がある。少ない土地でいかに収穫を増やすか、村人との協調性が何より大事である。

反当りの収穫は多いことと連作可能なことにより、城下町の周囲には麦畑のような広大な土地は必要ない。

パンを主食とする民族は、人口が増加すると更に拡大な領土が必要になる。麦と戦争は切っても切れない関係なのだ。

 

「人はパンのみに生きるにあらず」(マタイの福音書)とイエスは言った。

「人はパンのみに生きるにあらず」という言葉は、「神の名のもとに」という大儀(宗教)を利用して領土拡大が行われた。布教活動を名目とした宗教戦争の大半は、神(大儀)の名の下に行われた領土侵略戦争なのだ。

人間は、動物と異なり、頭脳が発達し「食うためだけに生きているのではない!」と解釈されているようだが、動物は、自分の家族が殺されたからと言って、仇討ちはしない。

動物は、憎しみの感情よりも、報復による死の連鎖を招かない選択をしているのだろう。

襲われたら逃げる。仲間の誰かが殺されれば諦める。逃げ切れないのは仲間より足が遅かったからで、肉食動物に襲われることは自然災害のようなものだと思って生きているのではないだろうか。

人間は、オスだけでなくメスや子供の区別なく、それもトドメを刺してまで人間同士殺しあう。

素手や刀が武器であれば「罪悪感」を感じるだろうが、人間は知能があるから、ミサイルのような相手が見えない距離から攻撃された場合でも、「罪悪感」は感じるはずである。ビルを破壊すれば、女・子供まで巻き添えになるくらい容易に解ること。

えっ!「知っていてミサイルを撃っただと!」

ひょっとすると、民族の違いは「種」が違うと思っているのかも知れない。そう思わないと戦争の無差別大量殺戮は説明できない。

「人はパンによって殺しあう」

イエスは、このことが解っていたから、罪の救済を「信仰」に求めたのに、いつまで経っても人間の知能は肉食動物を超えられない。

 

「食べもしないくせに、何であんなに殺す必要があるのだ」

きっと、動物は人間のことをバカにしているに違いない。

 

 

中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。

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