2月号(参拝作法と「心の神」の関係)

投稿日:2026年2月1日

7.参拝作法と「心の神」の関係

 

拝礼する相手は、極端に言うと誰でも良いのです。

元々神を信じる行為が不合理な理屈で成り立っているからです。

どんな宗教も、神の存在やあの世の存在を証明するエビデンスを持たないからです。だからと言ってそれだけで宗教を否定するのは間違いです。

人は、神の存在を否定するほど強くはないからです。苦しんで死を待つばかりの人に、「神はいません!」と言える人或いは社会は、どうかしていると思いませんか。神の存在を否定する社会は、独裁国家しかありません。

人と神との関係は二通りあります。

キリスト教や仏教のように、人と神とが直接的に関わり合える宗教と、一定の制限を持って関わる神道です。

この関係は、寺と神社の環境の違いを知れば容易に理解できます。

寺は、本堂・金堂以外の境内地には聖域と俗界の区別が曖昧で、寺の敷地(境内)

は誰でも何時でも立ち入りが許されるオ-プン(ウェルカム)な環境が整っています。

これに対して神道は、神社の境内に立ち入るには一定の立ち入り制限を課しています。

なぜ制限(ルール)を設けているのかというと、神社の境内全体が神域(聖域)であって、人間の領域ではないからです。

境内との端に立っている鳥居をくぐる前に一礼をしなければなりません。

鳥居は、神の領域と人間の領域の境に立っていますので、ここが結界となっているのです。鳥居をくぐると、すぐそばに身心を清めるために設けられている手水舎(ちょうずしゃ)があります。ここで手を洗い、左手に水を受けて口を漱(すす)ぎます。これは簡便な禊(みそぎ)の儀式なのです。心身を清めた後、社殿に続く参道を通って社殿に向かいますが、参道は中央が神の通り道ですので、参拝者は脇を歩かねばなりません。拝殿に着きますと、拝殿の前で拍手を打って参拝するのですが、何故拍手を打つのかという疑問が湧いてきます。

キリスト教も仏教も拍手は打ちません。拍手は明治以前には、貴人に合う際に手の中に武器を持っていないことを表明する意味があり、相撲でもそんきょの姿勢から揉み手をしてから拍手を打つのは、手に何も持っておらず正々堂々と戦う意思の確認であり、ビジネスの世界でも仲直りや締めの意味で手締めとして使われ、手を合わせることから神社参拝にも使われました。

実は、「二礼二拍手一礼」は最近まで統一されていませんでした。明治40年に神社祭式として作法が制定されましたが、一般化したわけではありません。戦前までは、地域或いは個人によって参拝形式はバラバラでした。戦後、占領軍による神道指令と内務省の決定を受けて一般化させましたが、平成以降になってやっと一般化したという説もあります。

拍手での際、宮司の多くは両手をずらして打つようですが、これは音を良くする意味と不浄な手を合わせないという意味があるそうです。

拍手でという言葉は「拍」の字を「柏」と手辺を木辺とを誤って「かしわ」という呼び方になってしまったという説が一般的なようです。

参拝者は、鳥居をくぐる時から参道を歩く道中で、身の引き締まった心で臨みながら社殿の前に立ちます。柏手を打った時、神と自分の心が一体になった瞬間を味わうことができます。

本殿のない神社には特に感じられますが、これは物理的肉体と神を信じる心とが同調した時の「心の揺らぎ」が人間の脳(心)に特別な感情を沸かせるからではないかと思います。

人の心の中の神が、神社の神と同調する「心の揺らぎ」だと思います。

この心の神は、日本人だけが持っているのではありません。例えば、音楽・絵画・山・川・草木のような自然に会った時、感性が揺れ動く瞬間に、それが心の神を揺さぶるのです。

八百万の神は一つの神(絶対神)と異なり、自然だけではなく、人間が創造した芸術の中にも存在しています。ここで言う存在は、客観的存在ではなく、主観的な存在です。芸術の中に神がなぜ宿るのか、それは作者が自分の脳で作品を作るのではなく、心の神が参加しているからなのです。

心の神が参加していない芸術は、感動が湧かないのです。

仏像を作る彫刻師は、彫っているのは私ではなく、木の仏性が私という道具を使っていると感じているようなのです。

神道は他の宗教との決定的な違いがあります。

それは神道文化が日本人のアイデンティティーを形成してきたことと、神道が宗教のカテゴリーに入らない、個々人の心の中にある自分だけの神を持つ思想文化がもとになっている点ではないでしょうか。

そんな神は、宗教の神ではなく、当然ながら教義はありません。

だから神道には教義はないので宗教ではないとされてきたのです。

日本人が無宗教だと言われるのは、このことが原因なのです。

神道を右翼だと決めつける人がいますが、右翼の人は神道を利用した人であり、利用された神道を悪者扱いしてはなりません。

ヨ-ロッパでも数多くの宗教戦争がありました。「神のために!」、「神の御名において!」

神を利用して戦争すれば、死ぬまで戦うことになります。悲惨な戦争になるのです。神は、利用するものではない。神は人々に祝福を行うことはあっても、戦争の主体になることはあり得ない。

日本人としてのアイデンティティーを持つということは、心の中に「自身の神」を宿すことだと思いますが如何でしょうか。

 

 

中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。

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