5.仏教は、本来無神論
「仏教は宗教ではない」と言うと信じない人が多いと思います。
仏教の創始者のお釈迦様は、死後の世界である「阿弥陀浄土」へ導いてくれるような教えとは、本来関係ありません。
釈迦は、クシャトリヤ(王族)からバラモン(僧)になって、カースト(身分制度)を破っただけでなく、女性とダリット(不可触民)さえも弟子にしたので、多くの弟子達が暗殺されました。
更に釈迦は、伝統的な神だけでなく、神あるいは悪魔という概念さえ否定する徹底した無神論者だったため、釈迦の教えは、本場のインドでは広まりませんでした。
伝統的な「カースト制度」を否定しただけでなく、多くの神々を否定した罪は当時としては受け入れがたい思想で、インドで定着するわけがありません。
「人間は死んだら終わりであり、消滅して無に還る」という釈迦の教えは、無神論者の考え方で、宗教の考えではありません。
ところが、仏僧の「玄奘三蔵」(般若心経を中国語に翻訳した人で、日本では三蔵法師として知られている)がインドで釈迦の教えを学び、唐に帰国してその思想を伝えました。
日本の僧は唐に渡り、その教えを学ぶために玄奘に師事し、帰国後、「飛鳥法興寺」で釈迦の教えを広めると、「元興寺」を始め次々に寺が建てられました。
こうして、奈良を中心に仏教が広まりましたが、奈良仏教(南都六宗)は、元々、貴族のようなエリートを対象にしており、仮に民衆を対象としても小難しくて理解できなかったと思います。ところが、釈迦仏教の教えが最も忠実に伝わった時代でもあったのです。
この時代、聖武天皇と光明皇后が、東大寺大仏殿を建立したことはよく知られていますが、何故、あのようなとてつもない大きな寺を建立したのでしょうか。
実は、聖武天皇と光明皇后との間に男の子が生まれたのですが、一歳を待たずに亡くなってしまいました。聖武天皇と光明皇后との間に成長できた子供は女の子だけで、「孝謙天皇」のちに重祚(一度退位した天皇が再び天皇として即位する)して「称徳天皇」となりましたが、他には妹だけで男の子には恵まれませんでした。
男系天皇が途絶えたために、結婚して女系天皇として承継する道はあったのですが、彼女(称徳天皇)は独身を貫いたのです。
その理由は道鏡と恋に落ちたことが原因とされていますが、これは、陰謀論に近くあり得ない話だと思います。道鏡の異例の出世を妬んだ者の噂話だと思います。
称徳天皇の次の天皇位は、男系男子の血統を守るためには、天武系(当時、天武天皇の血族を引いた者と敵対関係にあった)の男子を養子にするか、譲位するしかありません。
ところが、天武系の男子は、ロクでもない者ばかりだったようです。そこで、彼女は、人格を備えた道鏡を自分の後継としたかったのですが、血統に問題がありました。彼女は、天皇位は血族によるものではなく、徳のあるものが継ぐという中国の考え方を支持していたと思われます
「道鏡(僧侶)が天皇位を狙っている」ことを阻止しようとして、恵美押勝の叛乱がおき、朝廷・貴族・仏教界に混乱が生じていました。
宇佐八幡社は最初、「道鏡が位に着けば、我が国は一層良く治まる」とお告げをしたようです。
ところが称徳女帝は、和気清麻呂を宇佐八幡宮(大分県)に使いを出し、神の教えを確かめさせたところ「神代の昔から君臣の分が定まっているから、わきまえのない者は除くように」とお告げがありました。
このお告げに女帝は怒りました。この「宇佐八幡神託事件」以降、『皇位は天皇家の者しか就けない』との原則が確立したのです。
奈良時代最後の天武系の天皇である称徳天皇は、後継を指名せずに病気で亡くなってしまいます(毒殺されたという説もあります)。
称徳天皇亡き後は、藤原氏が権力を振るい、天智系の「光仁天皇」、その息子の桓武天皇を擁立するまでに、邪魔な人間を次々に暗殺して行く大変な時代になりました。
奈良の僧は武力(僧兵)を持って、朝廷・貴族さえ脅かす存在になっていたのです。
大仏殿の建立は、結果的には、国体の護持も鎮護国家の役割も果たさず、奈良は「呪われた都」となってしまったのです。
現在、奈良は古都として観光名所になっていますが、観光客の多くはこの大仏様を目当てに訪れているので、奈良市の財政は、現在でも大仏が大きく寄与しているのです。大仏様は、国体護持、鎮護国家から観光名所の役割にとって代わったのです。このため、奈良仏教は平安時代以降、日本人の宗教観からは希薄な存在になってしまいました。
大仏殿建立の目的は、男子に恵まれなかっただけでなく、その後に「干ばつ・地震等の災害」に加えて、権力争いに敗れた長屋王の自殺、それに凶作による飢えとの闘いで国家は非常事態に遭遇していました。
そこに遣唐使派遣のメンバ-から天然痘が入ってきて、薬も治療法もないので、瞬く間に朝廷・貴族・民衆にまで感染が広がってしまいました。当然、ウィルス感染が原因だということは解っていません。この病気は、物の怪(け)の仕業だと考えたのでしょう。こうした事態を収めるには、神か仏に頼るしかありません。これが大仏殿建立の目的だったのです。
東大寺建造には、二つの問題がありました。
一つは、天皇家は本来神道系の血筋であったので、神祇官のトップである天皇が仏殿を造るには、神道派(反対勢力)の協力を得る必要があります。
そこで時の政権は、宇佐八幡大神が東大寺建造を祝福することで、神と仏を融和させたのです。現在でも東大の境内に八幡宮を祀っています。
神道派の物部氏のプライドがこれで保てました。
二つ目は、税収不足で、この壮大な構想に財政がついていけません。
現代の常識で考えれば、この危機(男子の誕生・天然痘・干ばつ・地震・財政難・天皇の継承)を仏が救えるとは思えないので、無謀な計画であったことは間違いありません。
民衆から寄付を集め、その役目を信頼の厚い「行基」という私度僧に頼んで、全国の庶民から寄進を募りました。庶民は懐が寂しい中、何とか仏にすがる一心で寄付をしたのだと思います。
「行基」は資金集めに成功し、当時、最先端の建築・鋳造技術を集中させて752年に東大寺大仏殿を完成させました。
こうして仏教は貴族だけのものではなく、大仏殿建立時には、庶民を救う仏として民衆にも信仰されていったと考えられます。
ところが大仏建立によって大変な事態となってしまいました。
東大寺大仏殿建立のような大規模公共投資をした結果、国民の疲弊は極限にまで追い詰められ、国家財政の破綻、僧侶の横暴と堕落を招いてしまいました。不幸は重なるという「弱り目に祟り目」は、いつの時代でもやってきます。
平家物語第一巻に「天下三不如意」という言葉が出てきます。
白河法王が、「賀茂の水、双六の賽、山法師、是れぞ我が心にかなわぬもの」と嘆いたように、桓武天皇も奈良の仏教勢力に手を焼いていたようです。天武系の血筋と決別したかったこともあり、都を京都に移す決心を固めました。
元々日本の仏教は貴族を対象にしてきましたので、貴族は、寺や仏像を寄進して仏にすがることが出来ました。このため、貴族にとっては確かに平安な時代であり、権威を誇る彼らにとって、この世は決して厭離すべき穢土ではなく、浄土の世界をこの世に再現することが出来ました。藤原道長は剃髪して出家し「法成寺」(鎌倉時代に焼失)を建設、息子の頼道は父に倣って宇治に平等院鳳凰堂を建て、極楽浄土を再現しました。
だから、この時代、朝廷や貴族が寄進して建てられた寺院が多いのです。
平安遷都は鎮護をしっかり固めて造営されたにも拘わらず、政治は権力争いに集中し、民は貧困のどん底になっていたので、群盗と流浪の民を生み、仏教世界では末法の時代に入り、未来の希望が何一つ考えられない暗黒の時代を迎えたのです。
キリスト教にも「紀元千年の終末思想」がありましたが、日本の場合は平安中期の1052年です。
末法思想とは、釈迦の入滅(BC949年)後千年が正法、次の千年が像法で、それが終わると仏教の教えは現世ではまったく行われなくなる末法という時代になるという思想です。貴族は最後の時代を生きていて、このまま本当に世界は終末を迎えるのだろうと恐れていました。
この暗黒の時代を救ったのが、比叡山の法然です。
法然は、仏教を画期的に変えました。
彼は、罪深い庶民でも念仏するだけで救われる。ただ、ただ「南無阿弥陀仏」と唱えるだけでよい。「浄土三部経」を読誦することも必要すらない。救いの対象はこの世で救われない庶民が救われることだ。と説いたのです。
釈迦仏教から阿弥陀信仰への転換であり、釈迦仏教の戒律を守るのは難行・苦行であり必要ないとしました。「念仏を唱えるだけで良い」としたことから、貴族(九条兼実)や上級武士(平重衡)だけでなく、一般武士・庶民にも広まりました。仏教を庶民階級にも広げた功績は、とてつもなく大きかったのです
法然の教えが革命的と言えるのは、仏教から戒律をなくした点で、どんな宗教も戒律のない宗教は存在しません。法然はおそらく、「戒律は教祖が考えたのではなく、のちに弟子たちがルール作りが必要だと考えた結果が戒律という形になったのだろう。だから戒律は釈迦の教えではない」と否定したのかもしれません。
それまでの仏教は、女性は対象外としていましたが、法然は釈迦と同様、女性信者も受け入れたのです。
武士・庶民は、常に生死の境で生きていたので、多くの人々がこの教えによって救われたことでしょう。特に武士は殺人を生業とする職業だから、極楽行きは天から諦めているのかもしれません。それが法然によって、自分も極楽に行けると聞かされて、天にも昇る気持ちになったと想像できます。逆に言えば、宗教に裏打ちされれば戦争も肯定され、武士(軍人)は命を惜しまずに敵に向かうことが出来るようになります。
仏教は、もともと死者の祭祀に関心はありませんでした。死者を対象とするのではなく、自己の救済を目的としていたのです。9月号で「死体は亡骸で霊魂は入っていないから」という理由で死体は野に捨てられていました。
ところがやはり人間は、死者の成仏を願う気持ちから、死体を粗末に扱う事は抵抗があったのでしょう。この庶民の抵抗感をうまく利用したのが、室町時代の浄土真宗の「蓮如上人」です。
当時も、死体は亡骸であると思う一方で、死霊が、死体や生きている者に憑りつき「祟り(たたり)」を及ぼすと信じられていました。
死体を供養して阿弥陀の浄土に送り届けることは、死者のみでなく遺族にとっても安心なのです。現世に生きている者は、念仏することで死者をいたずらに恐怖する生活から解放され、供養すれば死者を恐れることもなくなりました。この供養の儀式が葬式であり、庶民の願望をうまく利用した結果、浄土真宗は布教を見事に成功させました。
現在、日本人の大半が「私は仏教徒です」というのは、解脱を求め、悟りの境地に入りたいのではなく、死者を弔い、やがて自分も極楽往生したい。それが儒教の「先祖供養」と相俟って、葬式仏教化したのではないかと思います。
法然の弟子の親鸞は、仏はもともと庶民を救済してくれるものだから、「南無阿弥陀仏」と何回も唱えなくてもよい。 1回どころか唱えなくても救われると教えていました。
極楽往生の仕方は、平安時代、天台宗の源信が「往生要集」の中で書いています。「死に近い病人を北枕で西向きに寝かせ、阿弥陀如来像から引いた糸を握り、香を焚き、花を散らして病人を飾る。間違っても、往生の障りを貪るような治療をしてはいけない」。
だから、臨終時における医薬を処方してはならないのです。「いたずらに延命治療をすると、極楽往生出来ないぞ!」と言っているのです。
現代の医療は、患者の意思とは無関係に、行き過ぎた延命治療を行なってきました。高度医療のおかげで、延命することが出来るようになりましたが、反面、生かされる苦しみが発生してしまったのです。
死は、決して医療の敗北ではありません。患者が生き地獄の状況にあっても、生かすだけの医療行為に対しては、最近疑問視されるようになり、一定の厳しい条件ではありますが、安楽死が認められるようになりました。
欧州では日本のように安楽死をタブーとすることなく、長い間議論が重ねられ、本人の意思を尊重する形で安楽死を認めていく方向になりました。
もし、天台宗の源信が生きていたら、自然な死に方に逆行するような医療行為をすれば、極楽往生出来ないと説いていたはずです。
中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。



