4.天国(極楽)と地獄
人が死ぬと皆仏(成仏)になるというのは、中国の仏教にはありません。日本特有の考え方なのです。
その証拠に、中国でもキリスト教世界でも死体を掘り起こして鞭を打ち、遺体を掘り起こして川に捨て、遺体の首に縄をかけ晒し首にする歴史がありました。
日本では、A級戦犯に対しても、死んだら英霊(戦死者の霊)になるという考えがありましたから、お国のために命をささげた軍人の霊は、靖国に集まると信じていました。
「靖国で会おうと!」と勇敢に戦ったのです。だから、靖国神社は、彼らの御霊を祀っているのです。
こういうことを言うと、必ず「右翼思想だ!」と非難されますが、この項の話は戦争の是非ではなく、肉体と魂を日本人がどのように理解しているのかという話なので、冷静に読んでみてください。
日本人は古来より、肉体と霊(魂)を区分していたようです。墓を見ればよくわかります。
愛知県では、死体のある墓は「ムショ」と呼ばれ、霊魂がないから捨て墓と呼ばれ、お参りする対象ではありません。
一方、霊が入っている墓は「ラント」と呼ばれ、人々はこの墓にお参りするのです。
こうした両墓制は日本各地にあり、肉体と霊を区分していた証拠です。
靖国神社には、当然、死体はありません。もっと大事な英霊が祀っています。お国のために亡くなった人々の御霊があるために、今でも多くの人達の参拝の対象になっています。霊魂の存在は、現代でも立派に信じられているのです。
現代中国の人達が、霊魂の存在を信じないのは理解できます。
共産主義思想は、宗教の存在を許さないからです。英霊の存在を認めていないから、そこに参拝する日本人は、彼らにしてみれば、何もない空間に参拝していることになります。
そうすると、何故、靖国参拝に目くじらを立てるのかよく解りません。
しかし、中国政府は、政治権力が霊魂の存在を認めていないだけで、中国の人民は、心の中で日本人以上に霊魂の存在を信じているのだと思います。祖霊信仰の歴史は、日本以上に遥かに長い過程を得ているからです。
韓国の人達は、霊魂の存在を信じているはずです。
彼らは、靖国神社が戦犯を祀っていることに反対しています。「戦犯を祀っているから、靖国参拝を許さない」と考えているのでしょう。
しかし、戦犯か戦犯でないかを決めたのは人間です。
A級戦犯とは、「戦争を計画、戦争の意思を判断した罪」で、これに該当した被告人はA級戦犯と呼ばれました。このA級戦犯は、アメリカが見せしめのために急ごしらえで作った罪で、「平和の罪」という罪は、法律には元々なかったのです。日本のような先進国では、「罪刑法定主義」が貫かれており、刑法に定めていない罪を犯しても、罰せられることはありません。罰は、刑法で法定されているのです。
オーストラリアの裁判官は、戦争を計画することが違法だという法律がないので、A級戦犯者は法律違反はしてないと主張しました。
これに対し、イギリス・カナダは、”戦争は犯罪であるという前例を作るための裁判にしよう。戦争の抑止力になるから、裁判の結果で法律を整備しよう” と主張しました。
ところが、インドのパール判事は「日本人は全員無罪です。裁判は公平であるべきで、戦勝国だけで日本を裁くのは最悪です。裁判で復讐をしてしまえば反感を買い、次の戦争の火種になる可能性がある。戦争再発を防ぐなら、戦勝国からも被告人を出して双方から検証すべきだ。こんな裁判を行えば世界の人々が国際裁判を信用しなくなってしまうだろう。罰を与えるのは、法律という根拠が必要だ。」と一人で反対したのです。
安倍元首相も、「裁判は敗戦すると、総て悪者扱い。勝てば何をやっても許される風潮の中での裁判は、本来公正さが保証されていない」と述べたのです。
この点は、暗に東京大空襲、広島・長崎の原爆投下を正当化するものであってはならないことを述べたものだと理解されます。
もう一度言います。戦犯か戦犯でないかを決めたのは人間です。
正義は神が決めるものであり、人間が決める場合は法律によるべきで、「力は正義なり」という理屈を認めてはいけません。現実にはこの理屈が大手を振って通っています。
明らかに国際法違反をした「日本軍の731部隊」は、アメリカの都合で訴追されていません。
ベトナム戦争では、A級・B級戦犯に該当するアメリカ軍は、誰も戦犯の罪には問われていません。
戦争で罪に問われるのは、敗戦国かICC(国際刑事裁判所)の加盟国だけなのです。ロシアのウクライナ侵攻は、罪になりません。アメリカ・ロシア・中国は、ICCの非締結国だからです。
一神教の考え方は、戦犯が「天国に行きか地獄行きか」を決めるのは、人間ではなく神様なのです。だから、一神教の神を信じている欧米では、日本人が靖国を参拝することに何ら違和感がないはずです。
神道も仏教も、本来、死んだ後は神か仏になるのだから、敵も味方もありません。ノーサイドということです。どんな犯罪者も、死ねば裁判にかけられることはありません。但し、無実の罪を着せられて死刑に処せられた場合は、霊のために名誉を回復することが必要です。
宗教は、現世の生き方が、死後の世界(あの世)と結びついているという考え方がありますが、現世の生き方の良し悪しは誰が決めるのでしょう。
誰も決められないから、神・閻魔様が決めるという論理なのです。
宗教は、非合理な信念が柱となっているので、他国の宗教・信仰等を批判することは、批判する側も非合理にならざるを得ないのです。
仏教の経典は、悟りを開くことが重要だという教えを、論理的に説明する必要がありました。仏教の悟りは真理を認識することです。
しかし、真理を認識することは、容易ではありません。
何故かというと、真理とか悟りの定義がはっきりしていないからです。
悟りとは何か。それは、悟ってみなければ解らないのです。言葉では表現できないそうなのです。
それでは、釈迦以外に悟りを開いて仏になった人はいるのでしょうか。
実は、残念ながらいなかったようなのです。証拠があります。
釈迦の次に悟りを開いてこの世に出てくる仏陀は、「弥勒菩薩」で、56億7千万年後と規定されたからです。地球誕生から現在までの38億年より長いのです。
気の長い話で、要は仏教が人間を救うことが出来ないと宣言したと同じことです。
弥勒菩薩は兜率天(トソツテン)という場所におり、56億7千万年後に、釈迦の救いに漏れた人を救済するためにこの世にやって来るというのです。
やってきた時には、地球はおそらく存在していないでしょう。
キリスト教でも、”悔い改めよ! 御国は近づいた ”(ヨハネ)
2000年経ってもまだ近づいてもいません。地球の歴史から考えれば2千年は一瞬かもしれませんが、人間の世界では途方もなく長い時間で、待つには長すぎるのです。
それでもキリスト教徒は2000年以上、「御国が来ますように。御心が天に行われるとおり、地にも行われますように!」と、お祈りしています。
もうとっくに御国は過ぎ去ってしまったのかもしれない。
いや現在が、御国なのかもしれない。御国が何処かは聖書に記されていません。
宗教はどんな宗教でも、一番肝心なことが解からないのです。
あの世のことは、生きている人には解からない。死ねば誰にも解ることです。
悟りも同じことだと思います。
仏教の一宗派は、人が死んだら別の世界に行くから、この世に霊は残らないので霊の存在を否定しています。更に、輪廻する主体さえ認めていません。
仏教は何が輪廻するのか。それは「識」であるという。結局よく解らない。
煩悩は迷いであって、実体ではないとしています。
“死後の世界なんて絶対ありません”と説く宗教は、宗教ではありません。
人は不条理な世の中にうんざりしています。不条理を解消することは不可能ですから、誰もが不条理な世の中で生きていかねばなりません。
現世は一時的なもので、不条理のない「あの世」を願望し、しかもそこは永遠なものという前提を置きたかったのは当然です。だからこそ、この世の不条理を我慢できる現世が過酷であればあるほど、あの世では楽しい極楽が待っているとする思想が受け入れられ、それが入信動機になって宗教が広まったと考えられます。
キリスト教・仏教に拘わらず、あらゆる宗教の根幹は「天国と地獄の思想」だということが出来ます。キリスト教では、将来、「イエス」がこの世に再臨して、「煉獄」で待機していた死者を、「イエス」が再来して「善人」と「悪人」に分け、「善人」は天国へ、「悪人」は地獄へ突き落とす(最後の審判)のです。
問題なのは、聖書には「地獄」という言葉が出てきません。地獄という概念は、信徒の願望から出たのでしょう。
仏教では、閻魔様が「善人」と「悪人」を分け、極楽行きか地獄行きかを判定するのですが、この判断基準は恐ろしく単純すぎます。
人間は善と悪の双方を兼ね備えて生きています。徹底した悪人、或いは徹底した善人というのはこの世に存在しません。善と悪はコインの裏表であり、人間は必ずこの両方の側面を持っています。善悪の判定基準を、イエスと閻魔様に是非伺いたいところです。
それなのに、どんな宗教も天国・極楽行きのガイドラインを示してくれません。
トランプ関税のようなもので、ガイドラインは神が決めるもので、被支配者には神に従うしかないのです。
天国と地獄の思想は、身分、階級、金持ち、貧乏人等の階級対立、或いは身分対立があり、この世で満たされない人達の夢想です。自分達を懲らしめた者を、地獄に突き落としたい願望から生まれたのでしょう。
階級や身分の対立がない未成熟な社会では、天国と地獄のような区別をあの世に抱かないはずです。
素朴な神道は、あの世があるだけで、天国も地獄も想定していません。この世で悪いことをした者は、あの世からこの世に帰る期間が年2回ではなく数年或いは十数年に1回と云うように長期化されることになっています。
釈迦以前のインド哲学、ヒンドゥ-教には「人間は死ぬと生前の行為によって六道の世界に生まれ変わる」とされてきました。
この輪廻転生するという考え方は、死後に「天・人・阿修羅・餓鬼・畜生・地獄の世界」を駆け巡ることから、霊魂だけの世界ではなく肉体を伴って輪廻転生すると考えられていました。霊魂だけなら餓鬼・畜生には生まれ変わらないからです。
輪廻はインド特有の考え方ですが、その起源はアーリア民族のインド征服にあるとされています。
紀元前20世紀から10世紀にかけて、もともとイラン高原にいたアーリア民族がインドに侵入し、先住民族を征服しました。征服した側の民族は、バラモン・クシャトリア・シュ-ドラのカーストになったと言われています。
インド人の認識では、仏教はヒンドゥ-教の一分派なのです。
仏教のテーマは「輪廻からの解脱」、つまり輪廻に対するアンチテーゼです。
カ-ストもなく輪廻が信じられてもいない日本では、仏教は必要なかったのです。
仏教はこの世の本質は「苦」であるとしています。生命全体が苦しみであるという、極端なニヒリズムの世界です。
大多数の人々が富を得られず、社会的にも経済的にも自然の中でも苦しい状態に置かれており、こうした社会実態が仏教を必要としたのです。
本来、仏教には身分、富の公平を目指してはいません。病気を治すことも出来ません。しかし、当時はあまりの苦しさゆえに、何かに頼るしかなかったのでしょう。
「仏教が、我々の苦しみを救ってくださるに違いない」と、勝手に解釈したのも無理からぬことです。
天皇自身も、悟り・解脱が仏教の根本だということより、国の荒廃を案じて、聖武天皇は、諸国に国分寺と国分尼寺を建て、国分寺の総本山「東大寺」を建てて救いを求めたのです。
この時代の奈良仏教(南都六宗)は、「俱舎宗、法相宗、三論宗、律宗、華厳宗,成実宗」の六つで、「東大寺」は華厳宗です。
華厳経は、黙坐する毘盧遮那の面前で、普賢、文殊などの菩薩が説法する形をとっています。華厳経は、体系的かつ難解な経典で、中国で高い権威を与えられ国家の政策目的に奉仕する「鎮護国家の思想」なのです。
奈良時代の仏教は、上座部仏教(小乗仏教)に近く、出家して難行苦行を求め、難解な経典を理解しなければなりません。だから、僧の修業は厳しく、漢文が読めるだけでなく教養を求められるため、信者は貴族等のエリ-トしかなれませんでした。
仏教はエリ-ト(貴族)にだけ認められており、僧侶は貧乏人がなれる職業ではありません。
元々仏教は、悟り・解脱を目的として生まれた仏教なのに、日本の支配者は、中国文化の輸入と鎮護国家を祈願する国家宗教として仏教を政治利用したのです。
釈迦の考えは、無神論に近く、「人間は死んだら終わりであり、消滅して無に還る」という「空」の思想だったのです。
中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。



