1月号(初詣は信仰か文化か)

投稿日:2026年1月27日

6.初詣は信仰か文化か

 

初詣は何処に行きましたか。

私は、近所の神社に詣でましたが、そこは織田信長の父織田信秀が築城した末森城(信長の弟、織田信行が城主)の跡地に創建された神社です。

恥ずかしいことにここの主祭神を知ったのは今年になってからです。てっきり織田信秀か主祭神だと思っていました。

主祭神は、応神天皇、神宮皇后、仲哀天皇の三神だそうです。

私の友人も、織田信秀か主祭神だと思っていたらしく、人間が神になったような格式の低い神社ではなく、初詣はもっと格式の高い神社にすべきだと言われましたが、よく考えてみると格式の高い神社というのは、何を基準にして判断するのかよくわからないのです。

天照大神を祀る伊勢神宮、草薙剣を祀る熱田神宮、大国主を祀る出雲大社、それぞれいかにも格式が高そうですが、これらを祀る神にはそもそも古事記の神で神話の世界に登場する神のため、実在性のエビデンスがありません。

そこで、実在した菅原道真を祀る天満宮、豊臣秀吉を祀る豊国神社、徳川家康を祀る東照宮等の権現様と比較することは出来ないはずで、神社の創建が古いほど格式が高いように見えますが、元々、「本殿」のある神社に神は居ないのです。仏教の金堂、本堂には仏像があり、仏がビジュアル化されています。ところが神殿には神が見える形で存在はしないのです。神が留守なので神を呼ぶために拍手を打って神に降神してもらうのです。日本の古神道では、自然そのものが神だったので、神を拝むために拝殿はありましたが、本殿はありません。本殿が設けられたのは、仏教が伝来したからでしょう。八百万の神は、自然の山・川・草・木だけに留まらず、あらゆるところに神が宿るとされ、トイレにも神がいるようです。

人は死ねば神になるとされるのは,霊魂の存在を信じたからで、この考え方はアニミズムの世界の考え方です。仏教には本来ありません。人は死ぬと皆仏になるという思想は、中国仏教にはありません。神仏習合で、神道の教えが仏教に取り入れられたのでしょう。西洋でも、キリスト教以前には多神教でしたので、霊魂の存在は当たり前の信仰の対象だったのです。ところが日本は行き過ぎてしまったようなのです。

平安時代初期には、奈良時代に仏教を取り入れたことにより仏教は優勢を誇り、多くの寺が建立されました。ところが、遣唐使廃止によって神道が息を吹き返し、「神道ナショナリズム」化したと思われるような極端な方向に向かってしまいました。日頃お世話になった「針」や「人形」がその役割を終えると、供養するようになりました。物に霊魂があるとするのは、世界では珍しいことと思います。

日本人は初詣の習慣があります。

新年には神社に参拝する文化が定着しています。

なぜ初詣が信仰ではなく文化的営みなのかというと、初詣は参詣(さんけい)…社寺に行くことが主旨・・・・であり、参拝は「拝む、祈る」ことに主眼が置かれているからです。

社寺に行くこと自体が文化的行事ですから、年に1回でよいのです。ですから初詣は、今年最初の参拝であると同時に、今年最後の参拝ともなるわけです。又、ほとんどの人が参拝対象である神がどのような神、例えば古事記に出てくる神なのか歴史上の人物なのかは重要ではないかもしれません。私自身も参拝した神社の神を知らずに参拝していました。

西洋人が聞いたら仰天するかもしれません。「参拝する相手も確かめずに参拝する日本人が信じられない!」

でも、私は何も不思議なことではないと思っています。

その理由は次号で!

 

 

中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。

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