中山鑑定士のコラム

投稿日:2021年6月28日

藤原「てい」(4)

「てい」は6つ年上の寛人(ヒロト)と結婚し、25歳の時に、夫の赴任により満州の「新京」に渡っている。
27歳の8月9日、突然「日ソ不可侵条約」を一方的に破ってソ連が参戦し、満州に侵攻してきた。その時、「てい」には二人の男の子(6歳の正広と3歳の正彦)と娘の咲子の五人家族であった。咲子はここで生まれ、まだ1ヶ月しか経っていない。
ソ連が参戦した当日の夜、参戦の情報を官舎で聞き、ただならぬ夫の顔を見ると事態の異常さを悟った。
兄二人の手をつなぎ、夫は咲子をリュックの上に乗せ、両手でトランクを下げ新京駅までの4kmをひたすら歩いた。「てい」は産後1ヶ月の体である。
終戦当時、満州国にいた民間人は155万人と推定されている。
満州や朝鮮国で玉音放送を聞いた人々は、放送が終わった直後、棍棒と鉈(ナタ)を持った朝鮮人、ソ連軍、中国人から襲われ、金目の物は全て略奪され、若い女性は強姦された。
引揚者は129万人、軍民合わせて24万5千人が命を落とした。
シベリアに強制連行された日本の軍人は、57万人、そのうちの10%強の6万人が栄養失調と強制労働で死亡している。伝染病と集団自決者は8万人にのぼる。満州・樺太に残った日本人(中国残留邦人)と両親が亡くなった子供(残留孤児)は、戦後悲惨な生活を余儀なくされた。
ソ連は2千万人以上の犠牲者を出したため、労働力不足を補うために日本の軍人を利用したのである。
「てい」達は、新京駅に集結され、出発の号令が出たものの、一団の行き先は知らされていなかった。無蓋の貨物列車にぎっしり詰め込まれ、石炭の粉を浴びながら寒さと飢餓に耐え乍らの長くて苦しい逃避行であった。
奉天、平壌、開城,京城を経て釜山に行くことになるが、次の駅へ向かうために、列車の乗り継ぎは山や谷を徒歩で乗り越え、廃屋寸前の農家で数週間過ごしし、又徒歩で川を渡りひたすら歩く。歩くことをあきらめた人は、そこで置いてきぼりにされた。
幼子2人と赤子を背負い、腹を空かせて泣く子を叱り、集団行動の中で団結心と猜疑心の入り混じった複雑な状況を、「てい」は、ただ単に生きて帰ることだけが目標だったのだろう。
ソ連が参戦した1945年8月9日から日本に帰国した翌年9月迄の11ケ月、捕虜となって夫のいない一家四人は、「てい」にとって地獄の中の逃避行であった。
博多から、故郷の上諏訪駅に到着し駅の待合室に案内された時、幽霊を見たのである。「てい」は「灰色のボーボーの髪をして、青黒く土色にけむった顔に頬骨が飛び出して、目はずっと奥の方に引っ込んで怪しい光を帯びて私をじっと見ている。色あせた一枚のシャツ、その下にはいている半ズボンの膝小僧のあたりが破れてぶらぶら下がっている。そのあたりから水ぶくれに腫れ上がった蝋のように白い足が2本ニュッと出て、それでも下駄だけは履いている。背中には死んだような子を背負い、両脇にはがくりと前に倒れそうになる子供の手を引いて・・・・・・。鏡に映った自分の姿を恐ろしく、幽霊のようだったと述懐している。
帰国後、「てい」の一家はどのような生活を送ったのか。

つづく

中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。

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