中山鑑定士のコラム

投稿日:2021年3月1日

カレ-ライス(2)
~植物の絶大な効果~

江戸時代、医者でもわからない不思議な病気が庶民を悩ませていた。
手足がむくんで麻痺し、足がしびれるだけでなく倦怠感に襲われ、重症化すると死亡者も出たのである。ところが、江戸から地方に療養に行くと治ってしまう。だから当時、「江戸わずらい」と呼ばれ、江戸の風土病と言われていた。実際には、大阪でも同じようなことが起きており「大阪腫れ」と呼ばれていたのである。
江戸時代には、富裕層を中心に将軍(綱吉、家定、家茂)もこの病を患っていた。
明治に入ると、軍隊のみならず製糸工場の女工にも病が流行り、その病は全国に広がって行き、結核と並んで我が国の2台国民病になっていった。
現代医学ではビタミンB1不足による「脚気」だとわかっており、徳川時代の江戸や軍隊は、おかずの少ない白米偏重の食事だったようである。
白米が腹一杯食べられるとして、男子は軍人、女子は製糸工場の女工に駆り出された。彼らだけではない。脚気は、野菜畑が桑畑に替わられるとビタミンB1の補給が断たれ、都市だけではなく農村にまで広がっていった。

殖産興業、富国強兵を政策の第一と考えていた明治政府にとって、脚気は兵力安定のための重要懸案事項のひとつである。明治16年、太平洋横断の練習航海中の軍艦で、ハワイのホノルルに着くまでに376人の乗組員中169人の重症脚気患者ら対し、25名の死亡者を出した。
当時、陸軍にも多くの患者が出ており、原因は細菌による感染症とする考え方が支配的だった。
しかし、海軍軍医総監の高木兼広(前回のコラム、東京慈恵会医科大学創立者)は、軍内の階級ごとにこの病の発生率が異なるのは何故か不思議に思っていた。
調査の結果、軍隊では階級によって食事内容が異なる点に注目し、西洋式の食事をとる上官に病が少ないことに目を付けた。英海軍の乗組員にこの病を患う者はいない。高木は、食事(タンパク質不足)が原因だと考えたのである。(現代医学はタンパク質ではなくビタミンB1不足が原因・・・・豚肉、枝豆、豆腐に多く含まれる)
英国海軍では、パンと肉などのたんぱく質の摂取量が日本海軍よりはるかに多い。だから、白米中心の日本食にその原因があると推測したのである。

そこで高木は、兵食改善を明治天皇に奏上。明治17年2月に280日に及ぶ練習艦「筑波」を使って、1年前と同じ航路でハワイのホノルルへの航海実験に出たのである。彼は、白米を麦飯に変え、パン食も導入した。又、留学先の英海軍で食べられていたビ-フシチュ-カレ-をアレンジし、麦と白米を混ぜたご飯を提供した。
その結果、患者は肉やミルクを嫌った数十名にとどまり、死者はゼロだった。脚気の発症率を劇的に抑えて栄養説を証明したのである。
一方、陸軍はドイツ医学を模範としており、東京大学衛生学教授の緒方正規が「脚気病菌」の発見を報告し、又、陸軍軍医総監の森林太郎(森鴎外)が「日本兵食論大意」を著して、脚気は細菌が原因だとして白米を原則とする日本食を採用し続けた。この論争はかなり長期に及んだ。(「白い航海」吉村昭著、講談社文庫より)
その後も陸軍は白米を採用し続け、日清戦争での陸軍の脚気患者は・・・・・34、783名の患者が出て3,944名が死亡、日露戦争での陸軍の脚気患者は211,600名の患者に対し27,800が死亡し、海軍では40名の患者のうち死者は1名に留まった。全体では、死亡戦死者を上回る脚気による犠牲者を出してしまった。それでも、陸軍は、脚気は細菌が原因だとして譲らなかった。
 脚気伝染病説を否定したのが北里柴三郎(慶応大学医学部創設者、初代学長)だが、ビタミンB1不足学説の基礎は鈴木梅太郎博士(理科学研究所設立者)である。
 鈴木梅太郎は、鶏と鳩を白米で飼育すると脚気の症状で死ぬが、米ぬかと玄米・麦には脚気を予防するだけでなく回復する成分があることを発見したのである。この成分こそ、ビタミンB1(彼はオリザニンと呼んだ)の発見であった。1912年、ノ-ベル医学生理学賞候補となっていたが、受賞論文のケアレスミスでノ-ベル賞の受賞を逃してしまった。もしこの時ノ-ベル賞を受賞していたら、湯川秀樹より早く日本人初のノ-ベル賞受賞者となっていたという説がある。
天才と誉れ高い森林太郎を非難することはできない。戦地に行けば白米が腹一杯食べられるといって集めた兵士に、玄米や麦飯は食べさせられない。
それに、当時はまだビタミンが発見されていなかったからである。
後に、フンクによるビタミンの発見、マッカラムによる脚気予防因子ビタミンBの発見により栄養説が実証された。
現在、栄養事情が良くなってきたため脚気を患う人は殆どいないが、栄養不良の子供が多かった60歳以上の人は覚えているはずだ。子供のころに膝のお皿の骨の下の部分を、黒のハンマ-で叩いて足が跳ね上がらないと脚気が疑われたことを。
大航海時代の食事は、肉の塩漬けや鱈の塩漬けを乾燥させた「バカラオ」、それにビスケット・パン等が食べられていた。しかし、塩漬けされたタンパク質は飽きてしまい、長期間保存すれば腐敗してしまう。そこで鶏・豚・山羊・牛を生きたまま船に積み込んだ。乾燥したパンは鉄のように硬かったから、ス-プにつけなければ食べられたものではない。水は腐るのでビ-ルかワインを水代わりに飲んだ。この食事では野菜が足りていない。そのため、英海軍は「壊血病」と数百年もの長い間闘い続けていた。
当時、ヨ-ロッパ人は野菜が健康食だとは知らないだけでなく、あまり好きではなかったようだ。「壊血病」の原因がビタミンC不足だと解ったのは20世紀に入ってからだから、知っていたなら嫌いでも無理やり食べたであろう。
ある時、キャベツをみじん切りにして、塩を混ぜて発酵させた漬物を食べていた海軍には「壊血病」患者が少ないことを耳にした。ジェ-ムズ・クック(キャプテン・クック)英海軍艦長である。彼は「エンデバ-号」を率いてオ-ストラリア・ハワイ諸島を発見した功績だけではなく、遠洋航海にも拘わらず乗組員を「壊血病」から救った。この救い主こそ酢キャベツ(サワ-クラウト)だった。サワ-クラウトは、発酵食品のため生キャベツよりもビタミンCが豊富である。クック船長は英に戻ることなく、原住民に殺されてしまうのだが、「壊血病」の特効薬として、この漬物が「エンデバ-号」に取り入れられたため、患者を出すことなく帰国できた。
その後、ライムやレモンの果汁も「壊血病」に効くことが分かってきて、海軍では乗組員にライムやレモンジュ-スを強制的に飲ませた。
その後、かんきつ類だけでなく、ジャガイモを始め野菜を食べると「壊血病」患者が少ないことに気が付きだした。
ビタミンCは加熱すると壊れてしまうが、ジャガイモはデンプンで保護されているから加熱してもビタミンCが壊れない。

ジャガイモ・玉葱・人参は、長期の航海に耐えられる野菜であり、料理法を工夫して安定した航海が可能となっただけでなく、野菜不足による「壊血病」を防いだのである。
日本の海軍は「壊血病」で悩まされることはなかった。漬物と大豆のもやしを食べていたからである。しかし、ジャガイモは長期の航海に耐えられる野菜であるから航海にはもってこいの野菜である。しかし、話はそう簡単ではない。

ジャガイモは、16世紀の末コロンブスがアンデスで出会い、ヨ-ロッパに持ちこんだ。花が美しいばかりでなく、冷涼な気候でもやせた土地でも育つことからヨ-ロッパ中に広がったのである。しかし、当初は食料としてではなく花としてヴェルサイユ宮殿をはじめとする、貴族の宮殿で栽培されたのである。
ジャガイモ以外のナス科の植物(トマト、トウガラシ、タバコ、ホオズキ、クコ、チョウセンアサガオ等)には毒があり、ジャガイモの芋以外の葉や茎、それに緑色に変色した皮の部分は熱による分解が起きないため、煮ても焼いても食えない(有毒)。食べるとソラニン中毒を起こす。ジャガイモの特性を良く知っていたアンデスの人と異なり、かなりのヨ-ロッパ人が中毒症状を引き起こしたため、ヨ-ロッパに持ち込んでからもしばらくの間食べられることはなかった。
それだけではない。ジャガイモの姿・形はヨ-ロッパ人にとって、見た目の悪さから「悪魔の植物」と言われていた。更に、聖書の創世記に「神は種子で増える植物をお創りなった」と書いている。芋は種芋で増えるから植物ではない。サツマイモ、コンニャクイモ、キャッサバ、サトイモ等の芋類は総て熱帯性植物だから、もともとヨ-ロッパにはなく、聖書にも出てこないわけだ。
こんな「悪魔の植物」と言われたジャガイモが、南米アンデスで食べられていたことに目を付けた人物がいた。プロイセンのフリ-ドリヒⅡ世である。彼が活躍していた時代は、ヨ-ロッパ全土で食糧危機が起きていた。
マリ-・アントワネットが、「パンが食べられなければクッキ-を食べれば!」といった時代である。
フリ-ドリヒⅡ世は、敬虔なクリスチャンであったが、軍隊のみならず国民に対しても強制的にジャガイモを食べさせたのである。聖書の言葉よりも食料飢饉を救うことを優先させた。
寒冷な気候、やせた土地に強く、更に保存が利き、食料不足の冬の間も食料とすることができたジャガイモ。家畜の餌にも事欠いていた当時、救荒植物としてはこれ以上のものはない。なによりも畑が戦場となっても土の中にはジャガイモが育っている。小麦に代わるジャガイモのおかげで、プロイセンは食料飢饉を乗り越えただけでなく、人口が増加していったのである。
当初、ジャガイモは人間の口に入れる前は家畜の餌だった。但し、家畜の餌になったのは豚だけである。豚以外の牛や羊はジャガイモを食べないし、そもそも牛や羊・鶏・犬等の家畜は、食用として飼われていたのではない。豚だけが役立たぬ存在であったため、食用のためだけに飼われていた。
このことが料理に画期的変化をもたらしたのである。豚とジャガイモの取り合わせで作られたのがジャ-マンポテトで、ジャガイモにベ-コン・ソ-セ-ジ・ウィンナ-等の豚肉と、付け合わせにピクルスかザワ-クラフトを添えた食べ物で、独家庭料理の定番となったのである。
プロイセンが食料飢饉を乗り越えたことはヨ-ロッパ中に広がり、ジャガイモは各国で栽培され、ヨ-ロッパの飢饉を救った。イギリスでもエリザベスⅠ世の頃に、シェフ達はジャガイモの料理法が解らず、食中毒を起こしてしまったから食べられなくなっていたが、芋以外のところに毒があるとわかってからは国民に普及していった。
大航海時代、長期保存が利くために安定した航海が可能になっただけでなく、ビタミンC不足による壊血病を防いでくれたことから、ジャガイモは海軍にはなくてはならない食料になったのである。
ジャガイモは、オランダ人によって早くから日本に入っていたが、サツマイモやカボチャに比べ、甘味に欠け、日本人の口に合わなかった。日本で普及したのは、カレ-ライスやシチュ-等の肉を合わせた料理が食されるようになって以降のことである。
「西洋野菜」が使われたのは、北海道開拓によって自国栽培が出来るようになった明治後半まで待たなければならなかった。
玉葱はどうか。
ヨ-ロッパで玉葱は、ス-プやシチュ-の嵩上げに使われ、庶民の食べ物で貴族は口にしない卑しい食べ物であった。玉葱だけではない。野菜自体が卑しい食べ物として上流階級には敬遠されていた。
日本では明治初期の頃、玉葱は和食に合わないことから食べ方がわからず、栽培はされていたもののほとんどが輸出され、日本で食用となったのは明治中期のこと。
玉葱とジャガイモは、北海道とのかかわりが深い。北海道で玉葱栽培が始まったのは明治4年、寒冷地の栽培に適した越冬野菜である。しかし、日持ちは良いが、当時の人々には「らっきょう」のお化けと映ったようだ。
一般家庭に普及したのは、カレ-ライスやハヤシライス等の洋食が家庭料理に取り入れられたからである。ジャガイモと同じである。
日本でもジャガイモは最初観賞用だったが、その後家畜の飼料になり、天明・天保の飢饉に初めて人の口に入り、餓死者を救ったようである。
明治中期でもジャガイモはカレ-の具材としてではなく、とろみをつけるためにわさびおろしで摺っており、小麦粉でとろみをつけていたのではない。
人参の原産地はアフガニスタンであるが、日本では江戸時代の中期に北海道で栽培していたようだ。現在、北海道の生産量は日本一(日本の生産量の30%)
カレ-には、味のバランスに加え彩のために必要だったのだろう。

カレ-は、江戸時代の1772年にイギリスの初代総督ウォ-レン・ヘイスティング(当時はベンガル知事)が、粉末の混合スパイスとコメ(ベンガル地方の主食)をインドから持ち込んだとされている。
カレ-の本場インドで、カレ-につけて食べるのは、パンジャブ地方を中心とする北部では「チャパティ-」(発酵させず焼いたパン)と「ナン」(発酵させてからタンドゥルで焼いたパン)、ベンガル地方を中心とする南部では「コメ」で、北と南では小麦文化とコメ文化の明確な違いがある。
カレ-は今でこそ手軽な料理であるが、香辛料を組み合わせてから作ると大変面倒くさい料理である。そこで、英人はスパイスを組み合わせたカレ-粉を作り、カレ-パウダ-にしてシチュ-を作っていた。
シチュ-は本来牛乳を使うが、英海軍のシチュ-は、当時の船が蒸気船だったので日持ちしない牛乳は使えない。その牛乳の代わりに香辛料を使うカレ-味のシチュ-にしたのだそうだ。
インドでは、現在でもそうだが、各家庭によって香辛料の種類・配分が異なる。
それだけではない。スパイスの選択と分量が、香り・辛味・色のバランスを決める重要な要素であり、更にそれらをどのように焙煎し、焙煎後どれくらい寝かせて熟成したらよいか。インド人にはおいしくても、英国で普及させるには、イギリス人の好みに合うよう工夫しなければならない。
ロンドンのC&B社(クロス・アンド・ブラックウェル社)は、苦労の末、英人の好みに合うよう調合して開発した固形ル-を作ることに成功し、発売したところ大変な人気商品となった。
当時の英海軍で食べられていたカレ-は、小麦粉だけでなくジャガイモも使われていない。現在でも、欧風カレ-にはソ-スそのものを味わうのがコンセプトのため、ジャガイモは入っていない。ジャガイモがカレ-に使われたのは明治33年(1900年)前後のことで、この当時は当然入っていない。
その後、英海軍は保存に優れ、航海食でよく食べられていたジャガイモをカレ-味のシチュ-に入れた。しかし、シチュ-のようなス-プ状では船の揺れに具合が悪いので、小麦粉で少しトロミをつけたカレ-が軍隊食になっていったのである。
明治初期の頃の日本のカレ-も、牛肉・玉葱・人参・ジャガイモは使われておらず、肉は鳥・エビ・タイ・カキ等で、野菜は玉葱ではなくネギだったようである。ネギから玉葱に置き換わったのは大正時代になってからのことである。

こうしてカレ-は食材の変遷を経て日露戦争以降、日本海軍の軍隊食として現在の海上自衛隊にも引き継がれている。現在、海上自衛隊では毎週金曜日に艦艇や部隊によって異なるが、全部で34種類のカレ-が食べられている。その中で、第4衛科学校では「元祖海軍カレイライス」が出されているらしい。
具材の長期保存が利き、安価なことに加えて栄養満点、大量調達が容易、美味、健康にもよいだけでなく後片付けの時短にもなり、長期の航海にカレ-ほど適した料理は無い。
カレ-は、横須賀の海軍基地が発祥(横須賀、呉が発祥地だというエビデンスはない。単に町おこしだという説もある)とされており、日露戦争後、退役軍人が故郷に帰って家庭に持ち込んだことによりその後国民食となった。
一説によると、この当時はまだカレ-ル-は市販されていないため、カレ-粉を醤油と砂糖で味付けしてカレ-に代わる「肉じゃが」が一般家庭に普及したとしている。
どうもこの説は信憑性に乏しい。
「肉じゃが」の起源は、英に留学経験を持つ東郷平八郎(日露戦争でバルチック艦隊に勝利した海軍軍司令官)が、海軍の料理長に命じてビ-フシチュ-を作らせようとしたが、バタ-とデミグラスソ-スがなかったため、醤油と砂糖で煮込んで作ったという説が一般的である。「肉じゃが」発祥は、軍港の広島県呉市と京都府の舞鶴の2つが有力となっている。
それにしても、牛肉・ジャガイモ・玉葱・人参は黄金の組み合わせである。
具材は同じでもソ-スの違いによって料理が変わる。
カレ-だけでなく、デミグラスソ-スを使えばビ-フシチュ-、少し肉を薄切りにすればハヤシライス、醤油と砂糖で味付けすれば肉じゃが、トマトソ-スを使えばビ-フ・ストロガノフ。実に多様な料理の具材の元となっている。
カレ-ライスを口にした際には、その起源がコロンブス、ヴァスコダ・ガマ、マゼラン達がスパイスを求めて世界の海を駆け巡った大航海時代に遡ることに想いをはせてほしい。ヨ-ロッパに持ち込まれたスパイスの中で、トウガラシは洋風料理の相性が悪く使われなかったが、カレ-が普及したお陰で使われたのである。1902年の日英同盟以降、両国の海軍で互いのカレ-を食べ比べ合い、カレ-談議に花が咲いたことが幾度となくあったかもしれない。
カレ-は、「壊血病」と「脚気の病」に大きく貢献した。
カレ-の辛さは、トウガラシのカプサイシンによるものだが、体を温め免疫力を高めることから新型ウィルスにも効果があるかもしれない。
日本のカレ-を本場のインド人に食べてもらったところ、あまりの美味しさにびっくりして「これは何という料理だ?」と聞かれたそうだ。
インドから渡った料理が幾多の変遷を経て日本独自の発達を遂げ、今や西洋料理なのか和食なのかの位置づけもはっきりしないほど国民に定着した。それどころか、世界最大のカレ-レストラン・チェ-ンであるCoCo壱番屋は、中国、タイ、韓国、アメリカ、台湾、シンガポ-ルのみならず、昨年、本場インドにまで進出した。
遠洋航海のための海軍食だったものが、今や驚く発展を遂げて世界を席巻しようとしている。次回は、日本のカレ-ライスのお話である。

続く

中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。

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