コラム
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4月号(「鳥浜とめ」)

9.「鳥浜とめ」

 

3月21日、特攻隊で有名な鹿児島県南端近くの「知覧」に行ってきた。

ここは昭和16年、「福岡県大刀洗・陸軍飛行学校」の分校として、パイロットの養成機関として開校したが、終戦近くになると、台湾・沖縄に北上して上陸する米軍の戦艦を阻止する必要に迫られていた。

戦況の悪化に伴い、パイロットの養成機関としての目的から、陸軍の特攻基地に変わり、沖縄戦で1,036名もの若い隊員が特攻員として戦死した。

現在滑走路は農地となっており、当時の面影は全くないが、基地の跡地の一隅に「平和会館」(展示資料館)が建っている。この資料館が建つ前は、特攻隊員のための食堂があった。経営者は、「鳥濱とめ」さんで、彼女は自分の名前の「とめ(留)」が気に入らなくて、「とみ(富)」に変更し、食堂の名前も「富食堂」にして看板を掲げていた。無論、軍の許可を得て営業していた。

特攻隊員は、特攻の日が近づくと、近くの「三角兵舎」(上空から見えないように林の中に建てられた半地下の小さな宿舎で、簡易ベッドに枕と毛布だけが置かれている)で寝泊りし、そこで遺書を書いて翌日に飛び立った。

特攻の前日、隊員たちは「富食堂」で最後の晩餐をした。

当時、卵は庶民の口には入らなかったが、軍に内緒で近くの農家に頼み込んで卵を仕入れ、隊員達に玉子丼を提供した。金のない隊員には無料で提供した。

見つかれば大変なことになることぐらい、彼女は百も承知である。

それだけではない。

隊員達の遺書は検問されたので、本音を書くことが出来ない。そこで若き隊員達は、母親・・・(父親宛てに出されたのはほんの僅か)・・・に思いの丈を書き綴った。

死が現実に差し迫ってくると、本来の弱虫が出てきて、気丈な気持ちをむしばんでいく。

遺書と言うより、母親にありったけ甘えたい気持ちをつづった手紙が多い。

母親だって、二十歳前後の息子を死なせるために産んだのではない。

特攻隊員は全員、自分の息子のように可愛がっていた「とめさん」も同じ気持ちでいた。

「お母さん! ごちそう様でした」と敬礼する隊員にどう答えていいか分からない。「三角兵舎」に帰る隊員の後姿を見送るしかない「とめさん」の目には、見送るたびに涙があふれた。

「とめさん」は、託された家族への手紙を、数キロ離れた郵便局まで持って行った。

当然規律違反であり、見つかれば営業停止どころでは済まされない。それを承知で彼女は引き受けていた。この資料館には、数百の遺書や手紙が展示されている。

特攻隊は、当初は独身で身寄りのないものから選ばれていたが、戦況の悪化により既婚者で子供のいる者も対象となった。17歳から26歳ぐらいで、ほぼ全員が志願兵である。当時はお国のために命を捧げることにためらいがないというより、自分の命が将来の日本の平和の一助になればという思いの方が強かったようだ。

隊員達も、「とめさん」が軍の規律違反を承知で引き受けていることぐらい判っている。だから、「とめさん」のことを「お母さん」と呼んでいた。

現在「富食堂」は「平和会館」になったが、この玉子丼、どんな玉子丼だったのか。「とめさん」のお孫さんが当時の作り方と同じ方法で作っている食堂が、東京の靖国神社の近くにあるという。

終戦の3ケ月前、幼子(おさなご)を抱えた隊員の遺書である。

「幸子! お父さんの膝の上で甘えられなくなって、ごめんよ」

「勝男! お馬さんになれなくなって、ごめんよ」

「芳江! 俺の選択は正しかったのだろうか? 2人の子供を頼む」

もう一つは遺書ではないが、同じく終戦の3ケ月前の出来事である。

数百人の若者に「大日本帝国陸軍・兵士」としての軍規・心構え等を教えていた特攻隊の教官のエピソ-ドである。

終戦間近に、教官自身が特攻に志願したが、上官から許可が下りなかった。彼も妻と2人の子供を抱えた20代後半の若者だったが、おそらく上官から「こいつは死なせてはならん」と思われていたのだろう。

ところが、この教官は「自分が志願しなくては、教え子に申し訳ない」と強く思っていた。無論、志願のことは妻にも話していた。4度目の志願申請書は、決意を表すために血で書かれていた。それでも上官は許可しなかった。

数日後、教鞭をとっていたとき、急な知らせが入った。妻子が近くの川辺川に身投げして死んだと聞かされた。妻は、自分と子供の存在が不許可の原因ではないかと思ったようだ。上官は、二人の死を見届けた後で、特攻を許可した。

この知覧の近くに「開聞岳」(かいもんだけ)という標高943ⅿの通称「薩摩富士」(日本百名山の一つ)と呼ばれる小高い山がある。

特攻兵は知覧の滑走路から離陸すると、必ずこの山を一周あるいは二周してから南250Kmの沖縄に向かった。

何を思いながら周ったのだろう。

 

 

中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。

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