作家になった「てい」(5)

投稿日:2021年7月5日

作家になった「てい」(5)

帰国してから過酷な逃避行が祟り、後遺症に悩まされ、昭和23年初め頃から遺書を書き始める。布団の上に腹這いになって遺書を書いていると、その頭の上を子供たちが歩き回る。遺書は、ノート2冊に細かい字でびっしりと書かれた。
この遺書は、後日夫に見せたところ、夫はノートの上に涙を落としながら読んでいた。このノートは尊敬する叔父の「咲平」のもとに届けられた。叔父は感動し、出版を強く勧め、昭和24年に「流れる星は生きている」と題して小さな出版社から出版され、ベストセラーになった。
私は、この小説のおかげで長年モヤモヤしていた謎が解けた。若い頃、同業者やご近所さん、それに遠縁にあたる人で満州からの引揚者が少なからずいた。私の体験から引揚者には共通性があった。
男親は帰国して結核等の病に侵され、概して短命であった。女親は幼子を抱え、一家を支えて生きていくために気丈な性格になり、働き者が多く、子供は母親の厳しい躾のせいであろうか、成績が良いか努力家である。しかし、全員貧困家庭である。無論、これに当てはまらない人はいる。更に共通していることは、彼らが引揚げ当時のことに多くを語らないことである。「死ぬぐらい苦労して帰国した」程度のことは聞くが具体性がない。突っ込んで聞くと話題を変えてしまう。
同じことが東南アジアから帰国した軍人およびシベリアに抑留されて生活を送ってきた軍人も多くを語らない。
「辛い体験を思い出したくないのだろう」と思っていたが、この小説を読んで目から鱗が落ちたのである。満州に渡った人は、藤原一家のように仕事で赴任したばかりでなく、食べていけない人が広大な土地を求めてバラ色の人生を描きながら満州開拓団に参加している。要は、難民だった。
それだけではなく、引揚者には単身者、子供の年齢、数、それに若い女性、貧富の差等、脱出時から機会の平等はなかった。生き延びるためには、足手まといになる幼児の多くが母親の手により命を奪われ、働き手の男性は収容所に送られ、若い女性は強姦の恐怖に怯えた。更に満州から釜山迄に要する食料費、交通費等の金は、各自払いであったので、冷酷な貧富の格差が集団の中で不信感や猜疑心を醸成していた。
この小説にも出てくるが、余裕のある者がそうでない日本人から常に狙われの対象となっていた。だから、各自宿泊する時は、持ち金を分散して隠す必要があった。途中怪我して歩けない人を見捨て、食べ物を乞う人を放置したこともあっただろう。こういう極限の状況の中で、自分は何も恥じることをしなかったと胸を張れる帰国者はいなかったに違いない。そんな事情も知らずに引揚者に当時のことを聞いた自分が愚かだった。
「流れる星は生きている」は、「てい」の実体験を克明に表現した貴重な証言である。緊迫した状況の中で子供の我が儘を過酷なまでに許さない残酷な母親像が男言葉によって子供にぶつけられたかと思うと、子供の寝姿に語りかける愛情一杯の表現が読者の涙を誘う。「てい」にとって生きて日本に帰ることだけが目的であった。
博多についてから、実家の諏訪までは遠かった。車中で咲子に死が訪れようとしたこともあったが、無事帰省することができ、目的は達成した

咲子は、帰国直後に栄養失調でお腹がパンパンに膨れ、その後遺症に加え、母親が結核を患って赤子の咲子と引き離されたためであろうか、小学校3年生まで言語障害が残った。
集団帰国する時、リュックに入れられた大豆の上に、おしめ姿で首だけ出し、母親の背中越しの風景を見ながらの生還である。人様に迷惑をかけることを恐れ、泣かないようにしつけられたことが言語障害の要因の一つではなかったのか。
更に咲子の性格が歪んだのは、二人の兄の存在だった。二人の兄に比べると、成績は格段の差であり、「てい」は咲子の成績を気にして差別的態度をとった。
正広・正彦は単に成績が良いという程度のものではない。次男の正彦は、東大大学院理学部修士課程数学専攻を経て、お茶の水女子大学理学部教授になった人で、「国家の品格」の著者である。
母親の差別的態度は、兄との成績だけではない。
それは、ある日、咲子が母に対する不信感を生み出す証拠を見つけたからである。

つづく

中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。

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