虹の人(2)

投稿日:2021年6月14日

虹の人(2)

「アス アサ ヨジ イヅニテ ジシンアリ」  ムクヒラ

北伊豆地震である。
電報どおり、翌日午前4時3分、直下型のマグニチュード7.3、震度6の地震が静岡県三島市で起きた。前震のほか各地で発光現象や地鳴りがあったようだ。断層のずれは上下に2.4m、北へ2.7m 移動した。地震によって生じた断層は、丹那断層と名付けられ、現在、「丹那断層公園」にあり、天然記念物に指定されている。この公園にあった「火雷神社」の石造りの鳥居と石段が、断層の境目にあったため、横ずれし1.4 m スライドした。223名の死者を出したのである。更にこの時大きな問題が生じた。
1918年に建設が開始され、工事途中だった東海道本線の「丹那トンネル(総延長7.8 km)」 が直撃を受け、大量の水が出て崩壊事故が起きてしまった。この事故で、工事関係者3名が死亡した。
もともとこのトンネルは、断層により大量の湧水に悩まされており、その解決策として地下水を抜いてしまう方法が取られた。抜き取られた水量は、実に箱根「芦ノ湖」の貯水量の3倍に達したという。
その結果、丹那盆地の田は乾田になり、稲作だけでなくワサビ農家が壊滅した。
この盆地で酪農が主要産業になったのは、この抜水によるものである。
丹那トンネルの設計は、東口から西口迄直線であったが、地震による地殻変動で、中央部で僅かS字にカーブしている。地震の3年後の1934年に開通したが、この難工事は1959年(昭和34年)に建設開始された東海道新幹線の「新丹那トンネル」の建設に活かされた。
特殊な地質・湧水・粘土質のために、排水ポンプが詰まってしまうため、通常採用されているシールド工法が適さないことも分かっていたので、丹那トンネルが16年かかったのに対し、「新丹那トンネル」は僅か4年4カ月で完成した。
間組・鹿島建設が最先端技術を駆使した工事であった。
椋平の北伊豆地震の的中は、国内だけでなく海外にも大きな反響があった。
1930年12月10日、アルバ-ト・アインシュタイン
1931年1月21日、トーマス・エジソン
から素晴らしい業績と激励の手紙が椋平の元に届いている。
更に、長野県諏訪郡上諏訪村出身で、東京帝国大学教授の「藤原咲平」は、椋平の「地震と虹は、太陽の放射エネルギーによるもの」という考え方を支持し、英文で世界に論文を発表した。
科学は時として学者が考えていたことと全く異なる結果を出すことがある。
例えば群発地震が収束して「安全宣言」を出した後に、本震によって大きな被害が出たことがある。
古くからの言い伝えは何の根拠もないことがある反面、現代科学では説明可能なこともある。
地震に関する前兆現象或いは言い伝えで、代表的なところでは、
① 地鳴り
② 地盤の隆起・沈降
③ 海面の変動
④ 温泉の混濁・枯渇・異常湧出・温度変化
⑤ 石油の滲出・天然ガスの噴出
⑥ ナマズの生態異常、犬・猫・鳥等の異常な鳴き声
⑦ 発光現象
⑧ 火山の噴火
⑨ 電磁気異常
⑩ 地震雲の発生
⑪ カラスが消えた
⑫ イカやタコの漁獲量が急に増えた
⑬ クジラやイルカが浜に打ち上げられた
等があるが、地震との因果関係は科学的に立証されていない。
椋平虹も、彼の学歴、それに虹の観測に小学生が使う分度器を用いていたことに加えて、椋平の地震予知が現在の地震予知学者よりも確率が高かったにも関わらず、虹と地震の因果関係が解明されない限り科学的でないと言って学会から一笑されてしまった。
しかし藤原は一生をかけて未知なる虹を追いかけた男のロマンに胸を打たれたのだろう。
藤原は、東京帝国大学の地震観測所がある和歌山県の田辺観測所に「孤高の人」となった椋平を招き、観測と月額20円の生活費を20年間にわたって援助し続けた。椋平はそのおかげで結婚し、田辺に移住し、分度器を持ってひたすら浜に出て観測を続けることが出来た。
さて温かい手を差し伸べた藤原咲平東京帝国大学教授は、中央気象台の第5代目の台長となり、1941年から1947年迄、お天気博士の第1号で、しかも日華事変、第二次世界大戦終戦後の気象に貢献した第一人者であった。
しかし戦時中、「風船爆弾」の研究に携わったとして1947年に公職追放となり、1950年、65歳の時、胃癌で亡くなった。
椋平はあいかわらず「白い虹」を追っていた。「白い虹」は、地震の発生が間近であることを知らせる前兆現象だと信じて疑わなかったのである。
虹は太陽と正反対の方向に出る。レイン(雨)、ボ-(弓)は雨の弓という意味で、日本人には7色と見えるので、7月16日(ナナイロ)は虹の日とされている。波長の関係で、一般的には赤が外側、紫が内側で、太陽が低い位置にあるときは大きな虹が見られる。要は屈折率の違いによって色が変わる。赤が42度紫は40度、水滴の大きさも関係する。水滴が大きいと紫・緑・赤がはっきり見える。小さいと赤は薄くなり、白みを帯びる。これが「白い虹」と呼ばれるものであり、これをいくら追っても地震に結びつくとは思えない。しかし、椋平は、虹自体の生成の仕組みではなく、漁師の言い伝えと自分の実体験をどうしても立証したかったのだろう。
我国では1,200年まで、虹を生き物と考えていたようだ。何かの虫だから虹にも虫偏の漢字が当てられた。

田辺でひたむきな観測をしていたにも関わらず椋平には何の成果も現れなかったが、ある日を境に「椋平虹」はかなりの確率で的中するようになった。世間からは時の人となり、「椋平虹」論争が再燃するほど有名人となったのである。
地震予知をこれほど的中させたのに、専門家たちは虹と地震に因果関係を認めるはずがなく、当初から眉唾物と疑っていた。
地震は、地球内部に蓄えられたエネルギ-が、岩石の破壊を通して放出されるからである。岩石の破壊は、火山の噴火と地殻の歪みによって生じる。
地殻の歪みは、プレート運動による長年の力が地殻にかかり、その歪みに耐えきれなくなったとき、岩石が破壊され地面が揺れる。要は地殻の歪みの解放現象が地震なのである。問題なのは、その地震が何時・何処で起きるのかが分からないというのが学者の見解なのである。だから、椋平の説は検討するに値しないと無視を決め込んでいたのである。
ところが、これほど地震予知を的中させた椋平に対して、学者の心中は穏やかではなかったに違いない。
現在でも、地震予知の専門家にさえ、的中率がほとんど期待できない中で、椋平は、どういう方法で地震予知を的中させたのか。
これにはアッと驚く方法があった。

つづく

中山恭三(なかやま きょうぞう)/不動産鑑定士。1946年生まれ。
1976年に㈱総合鑑定調査設立。 現在は㈱総合鑑定調査 相談役。
著書に、不動産にまつわる短編『不思議な話』(文芸社)を2018年2月に出版した。

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